人生の教科書 よのなかのルール

人生の教科書 よのなかのルール (ちくま文庫)

人生の教科書 よのなかのルール (ちくま文庫)


第1,2,3章は学校で教えてくれない「刑法」や「給料」、「離婚」など成熟社会を生きる上で必要なお話がたくさんあります。中高生(、大学生)は読むことをオススメします。勉強になったことを以下に列挙します。

  • 一般には、家を新しくしたり、引っ越したりすることが、新しいテレビを買ったり、家具を買ったり、クルマを買い換えたりする、大きな消費活動のどうかせんになると信じられている。だから政府が国内の経済活動を活性化させようとするときにはいつでも、住宅や住環境に対する政策を優先させることになる。
  • 実現できる欲望には限りがあります。だから、「どこで満足するか」ということが人生の最大の問題だといえます。(by矢幡洋氏)
  • デカイ高級車に乗って大金を湯水のごとく使うヤツなんか、今やダサイ。小さくて安い車でも、自分の個性や用途に応じて乗りこなしているヤツのほうがカッコイイ。(byテリー伊藤氏)


個人的には序章と終章の宮台真司氏の話が面白かったです。
まず殺人についての話をまとめるとは以下のようになります。

  • 要は、「仲間」の範囲が、見知らぬ人を大勢含んだ国民全体に及ぶ時代が終わってしまい、日常でも「人を殺してはいけない」という自明性がどんどん疑わしくなる。それが現代である。
    • 第二次世界大戦後、国家間レベルの「やられたら、やり返す」は難しくなりました。理由は二つあります。一つは、「仲間のため」に戦争したつもりが「仲間のため」になるとは限らなくなってきました。核戦争で双方破滅したり、第三国の経済制裁で打撃を被るからです。もう一つ、自国民だけを「仲間」だというのが難しくなり、経済や文化の面で国境を越えた交流が当然になりました。自分があるのは国家のおかげというより、自分の努力のおかげだという意識が強くなってきて、国のために命をかけることが馬鹿馬鹿しくなります。
  • 他人を殺すことができないのは、他人とのコミュニケーションを通じて肯定され承認されることによって養われる自尊心を失うことになるから。つまり自分を殺すことになります。

しかし、『人を殺すのはなぜいけないのか』を問う若者が増えているのはの社会のシステムの変化と関係していると考察しています。

  • 第一に、近代学校教育のシステムが、成熟社会にあわせて変化しなかったので、承認の供給不足が起きるようになりました。第二に、大人たちが成熟社会化に適合した尊厳の型を持っていないので、子供を承認する力を持てなくなりました。

近代過渡期の教育モデルは以下の通りです。

  • 軍隊と監獄をモデルとする長期間の義務教育は、伝統社会にない苦役です。これを忍耐させていたのが、近代過渡期特有の「社会の透明さ」と「未来の輝き」です。
  • "所属のゲタをはく生き方"は、ムラの共同体的作法を越えて人々を動機づける宗教を持たなかった伝統のせいですが、明治5年の学校教育令以降の近代学校教育による国民化の流れの中で、最高の所属先、イコール国家だとする思考枠組みが刷り込まれました。ファシズム研究の定説では、急速な重化学工業化や都市化によるムラ的所属の破壊がもたらした、都市労働者の不安や孤独が、崇高な共同体である国家に人々を引きつけました。平成不況でリストラによる所属不安が蔓延する今日、人ごととは言えない状況です。低レベルの自尊感情を、自由な試行錯誤による自信で引き上げるのと、崇高なるものへの所属といったゲタで埋め合わせるのと、私たちはどちらを選ぶべきでしょうか。

成熟社会では以下のような生き方、教育を提唱しています。

  • 近代成熟社会では、自立型尊厳の方が社会のシステムがうまくまわるという観点からも、好都合である。第一に、労働時間が短く、消費重視の時代には個人的な楽しみを見つける試行錯誤とコミュニケーションが重要になるからです。第二に、何が幸せかは人それぞれになるかからです。第三に、情報化の時代になると、マイクロソフトのような超大企業でも5年後に会社があるかどうかわからない。所属を頼る依存型自尊心より、どこでも力を発揮する自立型尊厳のほうが適切です。
  • 成熟社会では「これさえあればお前は幸せだ」と押し付けずに、「共に生きる」という枠の中で「自分だけの幸せ」を互いに模索することが、責任ある生き方だと考えられます。 

最後に、世界が意味がないと感じるならば以下のように意味に囚われないのがいいと思いました。

  • 僕たちの生の充実は、偶然にさらされていればこそのものです。偶然に左右されないで、食糧を、安全を、所属を、自己実現を確保しようとするからこそ、そこに一生懸命さが生まれ、「今ここで生きていること」の濃密さがもたらされます。偶然こそが僕たちの力の源泉ではないでしょうか。揺るがない必然的根拠や意味づけがないと力が出ないというのは、大いなる勘違いです。とすれば、あえて偶然に身をさらすような人生もありえます。