世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい (ちくま文庫)

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい (ちくま文庫)


オウムをモチーフにしたドキュメンタリ映画「A」,「A2」の監督による雑誌や書籍に寄稿した文章をまとめたものです。筆者はどんな人も集団の中にいることで無意識に他の共同体に対して残虐になりうることを忘れてはいけないと繰り返しています。以下は本文からの抜粋。

  • 危機管理の焦りから武力の保持を主張する世論が高まり、タカ派的言動の政治家が支持を受け、歴史を見直そうとする勢力も現れた。これらは皆、オウム以降だ。なぜそうなったのか。オウム事件をきっかけに日本社会は他者に対しての不安と恐怖が昂揚し、その帰結として他者への想像力を急速に失った。そしてこの欠落は、そのまま9・11以降のアメリカへ重複する。…(中略)…世界を正義と邪悪とに区別することで、アメリカは大切なことを失い続けている。オウムの信者もテロリストたちも、僕らと何も変わらない人たちだ。まずはその視点を持つべきだ。でも人が大勢死んだ。その理由は何か?それを考えなくてはならない。重要なことは他者を憎悪して攻撃することではなく、この悲劇が起きた構造を知ることなのだ。
  • オウムの信者のほとんどが善良で穏やかで純粋であるように、ナチスドイツもイラクのバース党幹部も北朝鮮の特殊工作隊員たちも、きっと皆、同じように善良で優しい人たちなのだと僕は確信しているということだ。でもそんな人たちが組織を作ったとき、何かが停止して何かが暴走する。その結果、優しく穏やかなままで彼らは限りなく残虐になれる。でもこれは彼らだけの問題じゃない。共同体に帰属しないことには生きてゆけない人類が、宿命的に内在しているリスクなのだと思っている。つまり僕らにもそのリスクはあるのです。
  • アメリカは悶絶している。その七転八倒に周囲がふみにじられる。今の強権的な姿勢を、石油利権や軍産複合体の暗躍が背景にある大国の身勝手なエゴだけ規定するのなら、間違いなく本質を見失う。
  • 二者択一ではない。世界はそんなに薄くない。人はそんなに単純ではない。そもそも矛盾と曖昧さを抱えた生きものだ。だからこそこの世界は豊かなのだ。
  • 日本の歴史が証明しているよ。国体を持たない表層的な国粋主義は全体主義に繋がるんだ。そんな過ちは繰り返しちゃいけない。
  • そして何よりも怖いのは、邪悪な魔女を断罪する自分たちは正義なのだと思い込んでいる群集(民意)は、自分たちの矛盾や論理の破綻に、爪の先ほども自覚がないことだ。
  • 「許さない」と拳を振り上げるとき、人は主語を「私」や「僕」などの一人称単数から「われわれ」や「国家」などの複数代名詞に置き換えている。つまり大きくて強いもの。だからカタルシスがある。だから善意に陶酔できる。自分だけに帰属しない述語は当然のように勇ましくなる。そして結局は暴走する。人の歴史はそんなことの繰り返しだ。


筆者は大学のサークルで映画サークルに入っていたようですが、保坂和志黒沢清周防正行林海象などとといった今の映画界の一線で活躍している人たちがメンバーにいたと読んでびっくりです。筆者はドキュメンタリ畑の人ですが、そういった人たちから受けた刺激が映画監督になる上で重要な下地になったのかなとか思いました。
以下は報道に対するスタンスや障害者に対する報道の姿勢に対する反感です。

  • 中立や客観などの概念は思い込みでしかない。作品に対峙するとき、映像であれ活字であれ、どんな作り手も主観的にならざるを得ないのだ。
  • その手の企画はおおむね、「障害者」と「懸命の努力」と「感動」がワンセットになっている。
  • 彼らが皆、純粋で誠実な人たちなのだという当然の前提も気に食わない。いい奴もいれば嫌な奴もいる。当たり前の話だ。

同意します。NHKなんかは中立の報道をしているといってますが、基本的には体制寄りの意見ですし、あくまで特定個人の意見ではないにすぎません。障害者の放送番組は基本的に筆者が指摘するようにワンパターン化されているので嫌いです。