- 作者:夏目 漱石
- 発売日: 1978/08/08
- メディア: 文庫
『道楽と職業』
ところが今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものはどこをどう尋ねたって一人もない。のみならず自分の専門は、日に月に、年には無論のこと、ただ狭く細くなって行きさえすればそれで済むのである。ちょうど針で掘抜井戸を作るとでも形容して然るべき有様になっていくばかりです。
職業の専門化、効率化が進んだ現代の管理社会を明治時代に既に予言していてすごいと思いました。
『現代日本の開化』
開化は人間活力の発現の経路である。義務の刺戟に対する反応としての消極的な活力節約(出来るだけ労働を少なくしてなるべくわずかな時間に多くの働きをしようとしようと工夫する)とまた道楽の刺戟に対する反応としての積極的な活力消費とが互いに並び進んで、コンガラガッて変化していって、この複雑極まりない開化というものが出来るのだと私は考えています。
昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力を敢えてしなければ死んでしまう。已むを得ないからやる。加之道楽の念はとにかく道楽の途はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいという方角も程度も至って微弱なもので、たまに脚を伸ばしたり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化して生きるか生きるかという競争になってしまったのである。ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるより外に仕方がない。自然と内に醗酵して醸された礼式でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端ともいえないほどの些細な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々の遣っている事は内発的でない、外発的である。
西洋で百年かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも空虚の譏を免れるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移をやろうとすればこれまた由々しき結果に陥るのであります。
前半の開化に関する考察は現代にも当てはまることだと感じました。漱石の考察を読むと今の効率化なり情報化というのは産業革命の延長戦にあるもので本質的には何も変わらないのかと感じました。また就活では余暇をアクティブに過ごせみたいなことをよくいわれましたが、仕事で力を使わなくなった文を余暇で十分に使い切らなきゃならないというのは客観的に見ると窮屈なのかと思ってしまいました。
後半では、日本で開化は日本内側からの変化でないことを鋭く指摘しています。
『文芸と道徳』
昔の道徳は完全な模型を標榜して、それに達し得る念力を以て修養の功を積むべく余儀なくされたのが昔の徳育であります。そっくりそのままの姿で再現できるという信念が強くて、批判的にこれらの模範を視る精神に乏しかったというのが主な原因でありましょう。
すべての倫理的意義を含む個人の行為が幾分か従前よりは自由になったため、窮屈の度が取れたため、すなわち昔のように強いて行い、無理にも成すという瘠我慢も圧迫も微弱になったため、一言にしていえば徳義上の評価がいつとなく推移したため、自分の弱点とみとめるようなことを恐れもなく人に話すのみか、その弱点を行為の上に露出して我も怪しまず、人も咎めぬという世の中になったのであります。
倫理観が戦前戦後で大きく変わったのかなと思ったんですが、明治以降でも大きく変わりはじめたのが伺えます。
『私の個人主義』
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより他に、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本意で、根のないうきぐさのように、そこいらをでたらめに漂っていたから、だめであったということにようやく気がついたのです。
漱石がイギリス留学で他人本意で生きていることに気づき、自分のすべき仕事を見つけたのはすごいと思いました。そういう人間にはこわいものなんてないんでしょうね。そのような生き方を彼は推奨しています。
だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ夕刊にお進みにならんことを希望して已まないのです。
貴方方の有って生れた個性がそこに打つかって始めて腰がすわるから、幸福と安心とをもたらすでしょう。
ただ他人を顧みない個人主義や利己主義とは違います。特に権力なり金力を行使するものは自我の行使に対して慎重であるべきと説いています。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいものが沢山あります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。
そして世間に認められた知識人でありながら、国家というものに対して慎重な見解を示しているのが意外でした。
元来国と国とは事例はいくら八釜しくっても、徳義心そんなにありゃしません。詐欺をやる、誤摩化しをやる。ペテンに掛ける、無茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければならない。