人間回復の経済学

人間回復の経済学 (岩波新書)

人間回復の経済学 (岩波新書)

去年の岩波新書50周年キャンペーンで多くの識者から推奨されていた本でしたので読みました。勉強になりました。
筆者は新自由主義経済学のもとになっている古典派系経済学に対して以下に示すように批判的なスタンスを立場をとっています。

経済学では人間をホモ・エコノミクス、つまり「経済人」と仮定する。人間は利己心にもとづいて、快楽と苦痛を一瞬のうちに合理的に計算して行動する、と経済学では規定している。

日本の構造改革

日本も小泉さんの前から中曽根さんの時代から財政の構造が変化したと本書では説いていますが、以下の引用が示すように歳入の削減がここまで進んでいたとは思いませんでした。

しかし、「所得から消費へ」のかけ声のもとに実施される税制改革は、いつも所得税法人税の減税が先行する。消費税の導入や消費税の増税は、所得税法人税の大幅減税のほんのほんの一部をつぐなったにすぎない。

1980年代の後半以降、新自由主義的税制改革がくりかえされてきた結果、租税負担率はアメリカをも大きく下まわり、先進諸国のなかでは異常に低い国となってしまっている。(略)日本はすでに小さな政府となっている。

このように所得税による所得の再分配機能が弱くなった結果として、以下のような事態がおこると警鐘を鳴らしていました。

年金財政への不安が高まれば、消費をひかえ、貯蓄を増強する。そうすると、企業の売り上げは伸びず、人件費を抑制するために、不正規従業員を増加させる。
ところが、不正規従業員は社会保険に加入しない。不正規従業員が加入しないと、社会保険の空洞化が生じる。社会保険の空洞化が生じると、社会保険に頼ることができないため、消費を抑制して、貯蓄を増強する。こうして不安と不況の悪循環がくりかえされていく。
しかも、企業が生産性を高めるために、不正規従業員を多く雇い、人間の労働を極度に単純化してしまうと、なにも企業を国内に立地しておく必要はない。そのため工場立地を海外にフライトさせ、90年代に産業の空洞化現象が急速に進んでいく。

その他にも犯罪の増加、失業率の増加、少子化、年金財政の破綻などが起こるのではないかと予想されていましたが、なんか今の状況を言い当てているようで残念です。
余談ですが、年金については少し前まで社会保険庁の管理体制に対する疑念が大きかった(それはそれで酷い話です)ですが、それよりも人口増加と経済成長を前提にしている年金のモデル自体にむりがあると個人的には考えています。

そして経済格差を押し進める新自由主義者が社会の崩壊を防ぐ手段として以下に示すように「道徳」に頼るとありましたが、現に安倍政権などは教育基本法の改正など道徳教育の強化を訴えたことは記憶に新しいと思います。

それだからこそサッチャーは「ビクトリアの美徳」を説く。つまり、家族のきずなや地域社会のきずなの重要性を強調する。そうすれば、家族や地域社会が社会崩壊を予防してくれるはずだからである。

ケインズ福祉国家の行き詰まり

テイラー主義*1による生産性の向上は、大量生産・大量消費によって、貧困からの解放を可能にしたのである。(略)
ケインズ福祉国家は、飢餓的貧困を克服していくことになる。しかし、それは、機械に従属した非人間的使用方法としての部分的労働を受容する、という代償を支払って実現したのである。

ケインズ福祉国家のもとで生産性向上を実現させてきたテイラー主義は、飢餓的貧困の解消とともに、生産性を低下させざるをえなくなる。というのも、人間の生存に必要不可欠な基本的ニーズが充足された労働者は、分断化され、単純化された非人間的労働にモチベーションを感じなくなるからである。

市場がホーダレス化すると、資本が一時のうちに国境を越えて動きまわり、財政による所得再分配が困難になってしまうからである。

テイラー主義の打破

民衆が貧困状態から脱したあとに経済的に豊かになるためにテイラー主義、すなわち大量生産、大量消費にたよるのには限界があるとしています。たしかにそうだと思います。

ところが、新自由主義構造改革は、フラット型組織のようなノンテイラー主義ではなく、より人間の労働の最適化をめざすネオテイラー主義を志向してしまう。それは、旧来型の産業構造を維持することを前提としているからである。

ノンテイラー主義の働き方として筆者は以下のような働き方を提案しています。

自分で目標を設定してしまうと、単調な運動でも意欲をもっておこなえるのである。
これが目標による管理である。作業者は自分の作業を理解し、自分で作業の目標を決定する。そうすると、高次の欲求を充足することができ、インセンティブとなる。賃金は一定水準まではインセンティブになるが、それを越えてしまうとインセンティブとはならないのである。
(略)そうなると自己の職務遂行の成果と意義を、従業員が自ら実感できるようになる。

ただ与えられた仕事をこなすのではなく、自分で仕事を見つける、少なくとも仕事の意義を考えながら仕事しけければならないと思います。そのための素養として基礎学力などある程度の教養は必要になります。以下のように国家は教育に責任をもつべきという意見には賛成です。

こうした国民の学ぶことへの欲求充足を、政府は保障する責務を負う。東京にある遠山真学塾の小笠毅氏の言葉で表現すれば、学びの社会スウェーデンでは、「いつでも、どこでも、誰でも、ただで」学ぶことを保障することが、学びの原則となる。

親の経済力によって学力が決まってしまうような社会は望ましくないと思います。チャレンジしたいと思う人がいつでも教育を受けられる機会を提供することが大事だと思います。誰にも機会が提供され、その結果としての報酬の格差はあってしかるべきだと思います。

*1:労働を時間研究と動作研究によって細分化し、機械に従属化させてしまう経営管理