消費社会の神話と構造

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版


フランスの思想家ジャン・ボードリヤールの代表作で現代消費社会を分析した書物です。前々から読んでみたいなと思っていましたが、先日都内の某書店でソフトカバーの廉価版が売られていましたので衝動買いしてしまいました。読むのに時間がかかり、全てを理解しきれませんが、なかなか示唆に富む内容で読んでいて勉強になりました。
本書では以下のようにモノの価値は使用価値だけではなく、記号の価値にあると考察されています。

洗濯機は道具として用いられるとともに、幸福や権威等の要素としての役割を演じている。後者こそは消費の固有の領域である。ここでは、他のあらゆる種類のモノが、意味表示的要素としての洗濯機に取ってかわることができる。象徴の論理と同様に記号の論理においても、モノはもはやはっきり規定された機能や欲求にはまったく結びついていない。(略)モノは意味作用の無意識的で不安定な領域として役立っているからである。

40年前に出版された本ですが、今の社会にも当てはまることが多いと思いました。他には消費に関する考察もおもしろかったので引用します。

消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの「使用」はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造される価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなるのである。現代の日常生活では、多くの場合、消費は導かれた消費性として生産性の命令に服従している。それゆえ、ほとんどの場合、モノは場ちがいに存在しているので、モノの豊かさ自体が逆説的ではあるが貧しさを意味している。在庫品とは欠乏につけられた無駄な飾り、苦悩の刻印にすぎない。モノは破壊においてのみ真にあり余るほど存在し、姿を消すことによって富の証拠となる。いすれにしても、暴力的で象徴的な形態にせよ、系統的で制度的な形態にせよ、破壊は脱工業化社会の支配的機能のひとつとなるべく定められている。