走ることについて語るとき僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)


村上春樹さんの走ることに綴ったエッセイです。わたしもよくジョッギングするため、共感できることが多かったです。

  • 走っている時に考えていること

僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くはないし、また一貫もしていない。とはいえ、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性として成り立っている考えなのだ。

何も考えていないわけではないですが、一生懸命に走っているときに考えていることは少し時間が経てば忘れてしまうことが多いです。

  • 才能と公平さ

生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。(略)しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。(略)鑿を手にこつこつと岩盤を割、穴を深くうがっていかないと創作の水源にたどり着くことができない。(略)しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けていくうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。(略)
人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所に遭っても、そこにある種の「公平さ」を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような「公平さ」に、あえて希求するだけの勝ちがあるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。

イスラエルでの卵の講演でも感じたことですが、村上さんは独特の比喩を使いますね。
才能がないと感じることは何かとありますが、小説の世界で成功している人でも才能がないと感じていて、その中でもがいていると聞くと勇気づけられます。

  • 勝ち負けについて

人生というハイウェイでは、追い越し車線だけをひたすら走り続けることはできない。しかしそれとは別に、同じ失敗を何度も繰り返すことはしたくない。ひとつの失敗から何かを学びとって、次の機会にその教訓を活かしたい。少なくともそういう生き方を続けることが能力的に許されるあいだは。

  • 長生きのために走ることについて

長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ほんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることのメタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。

ランナーというほどではありませんが、激しく同意します。