サピエンス全史

2年以上前に話題になった本です。今や本筆者の続編となる「ホモ・デウス」が既に出版されてしまい、出遅れ感がありますが、読みました。
人類の歴史をなぞった本ではなく、人類と他の生物との違いである文明、神話などの物語がどう形成されたのか説いた本です。
例えば物語の形成については別段新しい話とは思えませんでしたが、ラディカルに説いている点や、固定観念や常識が覆している点がビル・ゲイツマーク・ザッカーバーグといった著名人を惹きつけたのでしょうか。そういったところが戸惑いも感じつつも、目から鱗が落ちるような驚きを感じました。


いくつか面白いと思った箇所を引用します。

ハンブラビ法典とアメリカの独立宣言はともに、普遍的で永遠の正義の原理を略述するとしているものの、アメリカ人によれば、すべての人は平等なのに対して、バビロニア人によれば、人々は明らかに平等でないことになる。もちろん、アメリカ人は自分が正しく、ハンブラビが間違っているというだろう。当然ながらハンブラビは、自分が正しくアメリカ人が間違っていると言い返すだろう。じつは、両者ともに間違っている。ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の正義の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、何ら客観的な正当性はない。
(略)
自然の秩序は安定した秩序だ。重力が明日働かなくなる可能性はない。たとえ人々が重力の存在を信じなくなっても。それとは対照的に、想像上の秩序はつねに崩壊の危険を孕んでいる。なぜならそれは神話に依存しており、神話は人々が信じなくなった途端に消えてなくなってしまうからだ。想像上の秩序を保護するには、懸命に努力し続けることが欠かせない。そうした努力の一部は、暴力や強制という形を取る。軍隊、警察、裁判官、監獄は、想像上の秩序に即して行動するよう人々を強制するために、休むことなく働いている。古代バビロニア人が隣人の目を潰したら、「目には目を」という法律が必要だった。1860年アメリカ国民の過半数が、アフリカ人奴隷は人間であり、したがって自由という権利を享受してしかるべきだと結論したとき、南部諸州を同意させるためには、血なまぐさい内戦を必要とした。

たいていの社会政治的ヒエラルキーは、論理的基盤や生物学的基盤を欠いており、偶然の出来事を神話で支えて永続させたものにほかならない。歴史を学ぶ重要な理由の一つもそこにある。黒人と白人、あるいはバラモンとジュードラという区分が生物学的事実に基づいていたなら、つまりバラモンは本当にジュードラよりも優れた脳を持っていたなら、人間社会は生物学だけで理解できるだろう。だが現実には、ホモ・サピエンスの異なる集団どうしの生物学的区別は、無視できるほどでしかないので、インド社会の複雑さやアメリカ大陸の人種的ダイナミクスは生物学では説明できない。これらの現象を理解するには、想像力が生み出した虚構を、残忍で非常に現実味のある社会構造に変換した出来事や事情、力関係を学ぶしかないのだ。

歴史を研究するモチベーション

物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然ななものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。たとえば、ヨーロッパ人がどのようにアフリカ人を支配するに至ったかを研究すれば、人種的なヒエラルキーは自然なものでも必然的なものでもなく、世の中には違う形で構成しうると、気づくことができる。

科学研究が繁栄する条件

科学研究は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることができる。イデオロギーは研究の費用を正当化する。それと引き換えに、イデオロギーは科学研究の優先順位に影響を及ぼし、発見された物事をどうするか決める。したがって、人類が他の数ある目的地ではなくアラモゴードと月に到達した経緯を理解するためには、物理学者や生物学者社会学者の業績を調べるだけでは足りない。物理学や生物学、社会学を形作り、特定の方向を無視させたイデオロギーと政治と経済の力も、考慮に入れなくてはならないのだ。

最後に

唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私達が直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。
直面している