- 作者:長谷部 恭男
- 発売日: 2004/04/07
- メディア: 新書
人道的介入の危険性
「人道」という美名は、善悪の対立と関連づけられやすい。国内の政治において、善悪の対立が持ち込まれることがきわめて危険であったように、国際関係に善悪の対立が持ち込まれることにも危険がともなう。「善い国家」と「邪悪な国家」が対立するという図式は、たとえ戦争法規を無視してでも、また、民間人の犠牲を払ってでも、「邪悪な国家」をとりのぞくべきだとのぎろんに合流しがちである。
ルソーの戦争(状態)と国家に関する考察まとめ
それぞれの立場を離れて客観的に眺めれば、そこで展開されているのは、各人が自己保存を目指して可能なあらゆる行動をとる自然権を行使するという無秩序状態である。人間の本性が悪だからではなく、善悪をそれぞれの人間が独自に判断しようとすることが、万人の万人に対する闘争を招く。
すべての価値判断がそうであるように、主権者の判断も一つの主観的判断にすぎない。それにもかかわらず、彼の判断を社会の共通の判断としてすべての人々が受け入れたとき、はじめて共通の法が生まれ、社会生活のルールが確定し、各自に保証される財産とは何かが決まる。かくして、主権者の権威のした、国内の平和が実現し、人々は生活の安全と文明的な暮らしを保証されることになる。
自然状態の困難を解決し、国内の平和を確立することを目的として設立された国家は、当初の目的に反してかえってはるかに大規模な争乱に人々を巻き込むことになったというのがルソーの診断である。
祖国への愛と義務を説くルソーの背後には、国家はそもそも一定の目的のために構成された法人にすぎないという突き放した見方をするもう一人のルソーがいたと考えるべきであろう。当初の目的の達成にとって法人の存在自体が障害となるとき、法人はその存在意義を失う。いざとなれば社会契約を破棄し、国家を消滅させることで人命と財産の保全を優先すべきであるとのルソーの提言は、それとして筋の通ったもののように思われる。こうしたルソーの考え方からすれば、「国家の自衛権」なる観念がいかに不条理なものであるか理解できる。
政府を必要とする人々
われわれが政府を必要とするのは、自然状態が囚人のディレンマ状況だからではなく、実際にはそれが囚人のディレンマ状況であるにもかかわらず、それをチキン・ゲームとみなす人々がいるからである。政府は、裏切り行為を黙って見過ごす「チキン」になりがちな人々を強制して、協働して裏切り行為に対処させるためにこそ、必要だということになる。