一汁一菜でよいという提案

料理研究家土井善晴さんの本で、発売された当初から気になっていた本です。タイトルが主張そのものだと思い、気になっていたものの後回しにしていました。最近手元の本がだいぶ消化できてきたので読んでみました。

期待した通りの内容で、読んで良かったと思います。きちんとした料理を作らないといけないという責任感と言いますか強迫観念を持っている人にこそ読んでもらいたいです。私は最近は程よく手を抜くようにしていますが、そういう人でも土井さんに背中を押してもらえる気がします。

本書の内容を簡単にまとめると後書きで紹介された橋本麻里さんのコメントが的確かと思います。

愛情の度合いから栄養学の知識、果ては人生の姿勢まで量られてしまう万能の指標としての食事は、特に女性にとって、プレッシャーを感じる存在となってきた。そんな自縄自縛の思い込みをほぐしてくれるのが、本書である。
ごはんと具だくさんのみそ汁だけで十二分に完成する食事を基本に、具材の変化で季節の移り変わりを、付け足されるおかずに驚きや楽しみを発見する。(略)
信濃毎日新聞ニ〇一七年七月三十日朝刊)


長くなりますが、本書の中で良かったなと思う箇所の引用を紹介していきます。

一汁一菜のような身体が求めるお料理は、作り手の都合でおいしくならないことがあります。おいしい・おいしくないも、そのとき次第でよいのです。そう思って下さい。必要以上に味を気にして、喜んだり、悲しんだりしなくてもいい。どうでもよいというのではありませんが、どちらもありますから自分自身でその変化を感じていればよいのです。

「料理はやっぱり"ひと手間"ですよね」とはよく聞かれる言葉ですが、それは労力を褒めているのであって、必ずしもおいしきにつながもものではありません、そんな言い方をするのは、一般的に手を掛けることが愛情を掛ける、思いを込めることにつながると思っているいらです。しかし、日常の料理では手を掛ける必要はありません。家庭料理は手を掛けないもの。それがおいしさにつながるのです。
素材を生かすには、シンプルに料理することがいちばんです。ところがこの頃は先述のように、手を掛けなくてはいけない、手を掛けたものこそが料理だと思って人が多い。SNSの投稿などを見ていると、一汁二菜をお膳に正しく並べた画像に「今日は手抜きしちゃった」と言葉を添えてつぶやいています。和食は簡単、普段はもう少し手を掛けていると、少し自慢もしているのでしょうか。そんなつもりはなくても、手の掛からない、単純なものを下に見る風潮がお料理する人自身のハード上げ、苦しめることになっているのです。

庶民が手の掛かるご馳走を喜ぶのは、高価なものへの憧れです。世間体を重んじる日本では、だれもが最低でも他人と同等のものを手に入れたいと望みます。ときに分不相応でもある憧れは、場違いな場面に現れて、ハレとケを混同します。現代の私たちの生活は、まるでお公家様と庶民が一緒に暮らすようなアンバランスさを持っているのです。手の掛かった暮らしに憧れ、高価なものが良いと信じて、一方で当たり前にやるべきことを嫌う。そこに矛盾と無理が起こってきます。

作る余裕も時間もないのに、できっこないのに、おかずまで作る必要はないということです。それをやりはじめると良いことは全くありません。時間があっても、いろいろありますから、作りたくないときもあるでしょう。量が足りなければ、ご飯も味噌汁もお代わりすればいいのです。(略)
一汁一菜というスタイルを基本にして、暮らしの秩序ができてくれば、おのずから様々な楽しみが生まれるものです。

家庭料理に関わる約束とはなんでしょうか。食べることと生きることのつなが知り、一人ひとりが心の温かさと感受性を持つもの。それは、人を幸せにするカ自ら幸せになる力を育むものです。

家庭料理が、いつもいつもご馳走である必要も、いつもいつもおいしい必要もないのです。家の中でありとあらゆる経験をしているのです。ぜんぶ社会で役に立つことばかりです。上手でも下手でも、とにかくできることを一生懸命することがいちばんです。