「死」を哲学する

「死」を哲学する (双書 哲学塾)

「死」を哲学する (双書 哲学塾)


最近「死」について、強い関心があるというわけでもないですが、潜在的に興味がある話題であり、著者の本を読んでみたかったので買って読んでみました。以下、ポイント。

  • 死と人生の意味について
    • サルトルにとって、生きることは「無益」という一文字に収束します。』
    • 死の恐れの中核にあるものは『ずっと無であったのに、一瞬間だけ存在して、また永遠に無になると、いう残酷きわまりない構図のもとで生き、そして死ぬことのやりきれなさ、虚しさです。』
  • 死ぬ時としての未来
    • 『過去とは想起とさまざまな証拠との組み合わせによって構成されたものにほかなりません。』
    • 『これまで直接体験した諸事象のうちに、明晰かつ判明に過去・現在・未来という異なった時間のあり方を区別しているのです。』
    • 『それが「すでにない=あった」というあり方へと移行していくことを体験的に理解してはじめて、「まだない」という言葉が単なる概念ではなく、時間のあり方としての未来を表すことが理解できるのです。』
    • 『現在が過去から切り離されて与えられている場合(想定可能です)、未来という(概念ではなく)時間はいかにしても発生しないこと、過去が与えられていなければ、現在と未来との(概念的関係ではなく)時間関係をつけることができないことを意味します。』
    • 『「いま」とはΔtのような現象を測定する単位ではなく、さまざまな関心に基づく語り方に応じた世界の切り取り方なのです。』
  • 私の死と他人の死、不在と無
    • 『私が他人あるいは自分自身の死について真剣に考えるとき、言葉の習得とともに私が運命的に習得した自分の体験と他人の体験との同一性への信仰いや実感が根本的に揺らぎ出すということです。』 ← 『言語を習得するとは、第一に私の観点からだけでなく、他者の視点から見ること、記述すること学ぶこと、すなわち私の視点を無理やり(不特定の)他人の視点に合わせていくことです。
    • 『死が無意識と違うのは、死から覚めることがないというただ一点だけなのです。』
    • 『死が恐ろしいのは、無になるからではなく、「あとから」それを確認する視点をもちえないからです。』
    • 『ここにおいて、私は他人とは決定的に隔絶していることが自覚されます。』
    • 『他人の死は私にとって単なる不在なのですが、私の死は私にとっての不在ではなく、正真正銘の無なのです。』 ← 『不在には不在を確認する視点が必要なのです。』
    • 『「私が想起する」のではなく、「神が私において想起する」のだ、ということを明確な実感をもって確信できるなら、私が死ぬことによって、「私において」という「様相」が消えるだけであって、想起されたものの本質はいささかも変化しないのかもしれません。』
  • 「無」という名の有
    • 『無我夢中状態がすべてこの意味での無の体験ではなく、無の体験として成立するための条件とは「あとで」それを過去形で「……していた」と言語的に語れることです。』
    • サルトルは存在と無という両者のいずれにも陥らない第3のあり方を、人間存在(対自存在)という独特の存在に帰属させる。サルトルが求める独特の存在とは、次の要件を充たすようなものです。 1.それは世界に無を到来させる力をもっている。よって、それは完全な「無」ではない。 2.それは無と無関係な存在(対自存在)ではない。よって、それは完全な「有」ではない。』
    • サルトルが人間存在にのみに「無」という名の有を認めた。』『人間存在が「無である」ことは人間存在が「自由である」ことの言いかえです。』
  • まとめ
    • 『無は人間存在の「うち」に故郷をもつのではなく、無は人間存在が他者との差異性を抹消して言語を学ぶところに故郷をもつのです。』
    • 『私の死は、それが実現されても、それを確認する現在という時を迎えることのない他者なのです。』
  • その他
    • 『われわれが普段言っている原因とは(十分条件ではなく)必要条件にすぎないのですから、いかに綿密に特定の結果Wを引き起こすであろう原因を挙げてみても、Wが絶対確実に生じることにはならない、Wは生じないかもしれないのです。』